私思累々

映像業界から抜け出せないみそじ

面白い映画とは?

毎日映画を観ているとそれを知っている知人友人から「面白い映画教えて」と聞かれることがたまにある。そんな時はいつも困ってしまう。映画サイトが計算した平均点の高い映画を教えればいいのかな?それとも名作とか?「残菊物語」と言っても「ロボコップ」と言っても首を傾げられてしまうのは百も承知。


うむ。一体全体、ぼくは何に困っているのだ?と悶々とし、浮かび上がったのは簡単な話だ。


ぼくと他者は面白いを面白いと思う観点が違う。当たり前だ。それは全ての人がそうで、友人が面白いと思うものをぼくが面白いと感じない場合もあるし、無論、その逆もありえる。育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない、のだから。


しかしそんなロジックを聞いてくれた人にぶつけるのはあまりにも失礼。最近は、「好きな映画は何?」と逆に質問することにした。面白いという概念はあまりにも抽象的で複雑だから、それとなく質問の趣旨を変えて好き嫌いだけを聞き、類推する。
好きになるのに理由はいらない、のは確かだと思うが、好きになったのには間違いなく理由がある。願望や理想や思想が重なれば自ずと惹かれるし、同時に大嫌いで憎い思想や言動が勧善懲悪によって成敗されるとカタルシスを感じられる。「この世界は堕落していてクソみたいな場所だけど、それでも生きていくしかねぇ」っていう思いを抱いている場合はアメリカン・ニューシネマを観ればだいたい満足できる。


自分が、どう生きたいと思っていて、どうやって生きてきたかを考えれば好きな映画はけっこう簡単に出会えて芋づる式に次々出てくる。友は類を呼ぶみたいに。だって作ったのは人だから、映画との出会いはその人との出会いとそう変わりない。


さて本題の「面白い」に関しては、これは一朝一夕で絶対に共有できないし、長くなるので、別の記事でまとめようと思う。

人物に興味のない男「ダンケルク」クリストファー・ノーラン監督

退屈だった。


三つの時間の流れが、ブツ切れに並行して描かれる。戦場を疑似体感させたいと謳っているわりには、違うベクトルの情動をカットバックされても乗れない。観たいと一瞬思っても、全く別件(後から繋がるとかどうでもいい。観てるのは今だから)を見せられて毎回こっちは立て直さなければならない。もちろんそれぞれが抱えている問題(やろうとしていること)はわかる。でも、人物の行動は見せるけど、人物そのものはさながらハリボテのように徹底して裏のまま(描かない)。いつも通りのノーラン。人物に興味がなさ過ぎる。


ノーラン映画は「ダークナイト」以降、手放しで褒められる傾向にある。次作「ダークナイト・ライジング」が破綻しまくった物語にも関わらず、絶賛評が吹き荒れた。確かにルックは素晴らしいけど、登場人物はどいつもこいつも微塵も面白い人間じゃない。迂闊で思慮深さがなく馬鹿に見えて、ノーランの都合で物語を運びやすくするために作られたコマでしかないから、人間らしさもなく、興味が持てない。


本作に関してもあらゆる点において首を傾げずにいられない。
上記したように時勢がズレている上に、情動がぶつ切れでクライマック(構造的にはクライマックスですらない)で収束するにしてもそれらが別件すぎる。船の上の少年の押されて頭打って死ぬって件、何なの?さらにその少年に関しては、想いをしゃべって説明して新聞に載せるって、それで感動しろって?「30万人を救ったんだ」っていうキモをセリフで説明して終わりってなんだ?CGを使わないことにこだわり過ぎて大事なそのワンカットがない。一事が万事で大事なことはいつだってセリフで済ませてしまうのがノーランだ。情動は省略してセリフで済ませる。そんなのおもしろいわけがない。


民間の舟と戦闘機のトム・ハーディさんの時勢はどう考えてもサブプロットでしかないので、いらない。メインプロットの彼にピッタリくっついて描いたほうが物語としては整理されていて少なくとも現状よりは乗れていたと思う。


画は確かにすごい。全て実写なのも立派だと思う。でもそれ自体は面白くもなんともない。ぼくが観たかったのは映画で、人間の姿。



たとえばスピルバーグ先生の「宇宙戦争」のような。
力で世界や人々を支配してきたアメリカが、宇宙人(外部から来た者)の力によって支配される。駄目な父親トム・クルーズと同じ目高で体感し、守るべき一人娘を命がけで守る姿を通して、搾取や武力(戦争)の恐怖を疑似体験する。
トム・クルーズの変化し成長していく情動があることで恐怖は一層強く、緊張感は膨らみ、めまぐるしいアクション描写も素晴らしく興奮できる。そんな初歩的なことはノーランだってわかっているだろうが、それを描いたら(尺的に?構成的に?)俺の描きたいルックは描けねえ!っていうのがきっとノーランの想いなんだろうなと、観ながら考えてた。


そういう意固地なロマンチスト映画バカなのが、ノーランなんだと思う。少しは他人に興味持ってよ。

概念と映画「散歩する侵略者」黒沢清監督

侵略映画は昔から山ほどあって、中でも有名なのは「ボディ・スナッチャー」で、何度もリメイクされている。最初のドン・シーゲル監督が手掛けた本作が公開された50年代当時、多くのSFが作られ「地球の静止する日」や「宇宙戦争」などの外部からの攻撃や侵略を恐れ、「遊星からの物体X」や「ボディ・スナッチャー」のような共産主義や全体主義の恐怖が作品に反映されていた。「ボディ・スナッチャー」は隣人や家族でさえ、いつの間にかそういった思想に取り込まれているという、心に対する侵略の恐怖だ。


ぼくが特に大好きなのは1978年にフィリップ・カウフマン監督がリメイクした「SF/ボディ・スナッチャー」で、まさに冷戦真っ只中に作られ、最高に恐ろしくて楽しい傑作だ。

有名すぎるこの指の感じは、「散歩する侵略者」にもオマージュされてますね。


上記したように侵略映画は、イデオロギーを変えてしまう、変わってしまうという共通点があり、その人をその人で無くしてしまう地続きの恐ろしさが凝縮された非常に社会性の高いジャンル映画だ。


そうやって考えると「散歩する侵略者」もそういった今この瞬間の社会問題(恐怖?)が反省されているのは間違いない。ただ、「散歩する侵略者」に関しては、侵略者によって乗っ取られるのではなく抜かれるのだ。これは一体、どういうことなのだろう。


彼らが人間から奪うのは概念だ。それは、一朝一夕で身につけたのではなく、長い時間をかけて築き上げた指針であるとか、考えの根源である。それに基づいて人は時に瞬時に判断し、あるいは長考し行動を決めている。そういった意味では、イデオロギーに近く、それを失うとあらゆる判断ができなくなってしまう。本作においても、概念をひとつ抜かれるだけでイデオロギーが大きく変化し、人が変わってしまう。


概念はすべての言葉に寄り添っていて概念のない言葉はないといってもいい。全てには意味や理由がある。こんなふうに広げて考えると、実存主義っぽく聞こえてしまうが、あながち間違いでもないような気がする。例えば、「なぜ私は生きているのか?」を真剣に自分に問いただして、それなりに納得のゆく結論を自分自身で導き出せる人はどれだけいるのだろう?「自分と他人の違いは何か?」なんて、あまりにも哲学的すぎるが、考察できたら立派な哲学者だ。でも、誰もが朧げに言葉では言い表せないながらも、わたしがわたしであることをはっきり認識しているはず。


その一方で、概念が抜けている言葉を頻繁に耳にする。例えば「ヤバい」だ。この言葉は、どんな状況にも応用できる。美味しいものを食べた時、激痛が走った時、眠たい時、恋が実った時、事故を目撃した時。それぞれの状況に遭遇した時、まったく異なる情動が働いているはずなのに、その自らの情動を言語化するのを省略して発せられるのが「ヤバい」だ。「ヤバい」は形骸化したLINEのスタンプのような言葉で、もはや言葉というよりはオノマトペの一種に思えてくる。概念が抜け落ちた言葉を、言葉だと思いこんで平然と使うのは概念がないことに等しくないだろうか?そんな言葉は山ほどあるし、同時に概念があるはずの言葉も使う当人がその言葉の概念を持たずして(考えず)使っている場合は、それもまた形骸化した言葉になってしまう。ぼくはそんな人によく出会う。それを恐ろしくも思う。


概念は必ずしも統一なわけではない。なんてのはその最たる例で、人それぞれ愛の概念は違う。むろん、考えたこともない人もいるだろうが、それぞれが築き上げた概念一つひとつの総体、集合体が自己同一性を創造し、実存主義がいうところの実存を作り上げていく。概念のない人(考えたことない人)にそれを大声で説いたとこで絶対に伝わらない。それはさながら劇中の長谷川さんの姿に重なる。


概念を喪失した人と、概念がそもそもない人の間にはどれだけの差があるのだろう?ぼくからすればどちらもそう変わらない。結局概念がないことに変わりはないのだから。
それはまるで「ゼイリブ」のようで、侵略される以前からすでに何かに毒されているように思えてならない。「有権者には眠っていてもらいたい」と言った政治家もいるくらい、この現代社会は考えないことを良しとしている。バラエティを付けても、ドラマを見ていても、考える余地なんて微塵も与えてくれない。米大統領トランプが大好きな反知性主義は間違いなく日本にも侵食している。


そう思うと、ラストシーンの長澤まさみさんの姿がどれだけの人の鏡になったことだろう。