私思累々

映像業界から抜け出せないみそじ

映画は必要か?「ゼイリブ」ジョン・カーペンター監督


答えはNOだ。


いらない。
さらに言えば車もiphoneも電車もインターネットもお金も、胸ポケットさえも本当は必要ない。「それがあった方が幸せです」っていう総体的な思い込みの中で生きているだけでしかない。
アーミッシュという信徒はキリストのいうことを信じて200年以上前の自給自足の生活を今でも続けているらしい。つまり文明なんてなくても生きていける。


ぼくも資本主義の歯車の一部として、クソみたいな消費活動に参加しているが、無知の知を常に自覚することを自らに言わしめて完全に飲まれぬようギリギリのところでどうにか折り合いを付けようとしている。いや、無理なんだけどね。


トップの画像はジョン・カーペンター監督のSF映画「ゼイリブ」のワンショットで、これは紛れも無い現実だ。
格差社会が広がる近未来。主人公は教会で見つけたサングラスをかけると、ある人間は気色の悪い化け物に見え、看板や商品には「Obey(服従せよ)」」や「Sleep(寝てろ)」、「No Thought(考えるな)」などの文字が浮かび上がる!

このサングラスはつまり世界の本質が見えてしまうという設定で、消費社会の本心を露わにしているともいえる。


我々が行なっている仕事もそれ以外の日常生活も、そのほとんどが消費活動の断片に過ぎない。なんの意味も生み出していないし、刻一刻と化け物だけを増やしているだけ。


そんな明白な現実に気付かせてくれるのが本作だ。とりいそぎ取って付けたような理由をつけるなら、それに気付かせてくれるという点で「ゼイリブ」は社会に必要だ。
優れた映画の多くは、些細であるがゆえに知らず知らず見過ごしている重要なことをサングラスをかけるように気付かせてくれる。
映画がなければこんな化け物だらけの世界は恐ろし過ぎてやってらんない!

会いたくて震えてないでこの映画で震えろ!「ELLE」ポール・ヴァーホーヴェン監督

ポール・ヴァーホーヴェン監督の映画は、最高だ。


なぜ最高かというと、ヴァーホーヴェン監督は忖度したおためぼかしなものを絶対に描かない。幼少期にオランダの戦火の最中で、仲間であるはずの連合軍からの攻撃を受けた。見渡す限りの死屍累々、地獄絵図と化した戦火を生き抜いたヴァーホーヴェン監督は、一般的な正しさを絶対に描かない。それに対する疑問符や脳裏に焼き付いた死や人間の残酷野蛮さが必ず作品に反映されている。


ポリティカル・コレクトネスに縛り付ける輩や、それがあることにすら気付かず平然と偽善的な態度で生きている輩には死んだ後も理解できないであろう映画がヴァーホーヴェン先生の作る作品だ。たとえば「スターシップ・トゥルーパーズ」を戦意高揚映画(そうなるように撮っているのもコミコミの皮肉)だと批判する奴は本当にどうしようもない。幼稚園児ほども頭を使っていない。戦意高揚プロパガンダ映画のパロディなのだから。


この映画を批判する意見の中には、ミシェルの性に対する奔放さや寛容さを批難する声もあって、何を言っているのかさっぱりわからないが、男が奔放であることには批難しないくせに女性が奔放になるとなぜ憤慨するのか?そもそも欲求なんて食欲や睡眠欲と同じ水準にあるものだから、自由だの奔放だのという言葉も当てはまらない。そうあることは、至って健全であって然るべきこと。
他にもミシェルがレイプされて警察に通報したり、苦しんだりする姿を描写しないヴァーホーヴェン監督に対して「陵辱されても黙っている女性を描くなんて、女性軽視だ」などという論議があるが、被害者ぶることが正解なの?ミシェルの強さは、社会的に決められる被害者像に押し込められてためるか!という姿にあるのに。


そもそも倫理やモラルや道徳、宗教から法律まで、全部、どっかの誰かが「こうしようぜ」と決めたものでしかない。「実は全部嘘でした~」となってもおかしくないくらい「思い込み・刷り込まされた」ものでしかないのに、なぜそれらを疑いもせずに信じきれるのかぼくにはさっぱりわからない。先に言っておくが、批判と批難は全く違う。ヴァーホーヴェン監督は、社会的・政治的に「正しい」とされる価値観や概念の気色悪さをえぐり出してその内側に平然と押し込められた本質を、観客に一切のおためぼかしのない表現でぶつけてくる。不快だ!と突っぱねるも良いし、わからない!と放棄するも良いが、それをしたらこの映画を楽しむ入口にすら立てなくなってしまう。
優れた映画の多くがそうであるように、「ハラワタを掴んでえぐり出して」くれるのが本作の素晴らしさで、ヴァーホーヴェン監督の一貫しているところだ。


そして一番大事なのは、ミシェルが正しい!と謳った映画ではないということ。ヴァーホーヴェン監督はこれまでもミシェルのような「強い」女性像を描き続けてきた。それはただ単にヴァーホーヴェン監督の趣味なだけ。好きで好きでたまらないのだ。


ガラスの天井をぶち破る姿勢を持ち続ける監督のいつもどおりの女尊男卑映画。


男なんて馬鹿ばっかり!男なんかに会えなくて震えられてちゃ困るぜ!男が会いたくなって会いに来ちゃうけどハサミでぶっ刺して、タコ殴りでぐちゃぐちゃにして欲しい!
この度も震える程興奮しましたし、次のヴァーホーヴェン監督作品が震えるほど待ち遠しい!日本の震えている多くの女性にも観ていただきたい!

ロメロウィルスは世界の隅々へ「新感染」ヨン・サンホ監督


「ゾンビよりも人間のほうが遥かに恐ろしい」


これを浮き彫りにするためにゾンビは墓の下から蘇ってきたのなんだと「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を観て、ぼくはロメロ監督から教わった。人を喰うゾンビと、人を平然と足蹴にできてしまう人間だったら、思考がある上でそうする後者の方が絶対に恐ろしい。
ゾンビ映画は、それを描いて初めて真の恐怖を覚えられる。


ゾンビ映画好きなら誰もが知っていることだけど、ゾンビの生みの親である(ゾンビのルールを作った)ロメロ監督は、描く作品ごとにその時代の恐怖をゾンビとその物語に象徴させていた。「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では公民権運動やカウンターカルチャーを、「ゾンビ」では均一化の進む社会で形骸化していく人々を、「ランド・オブ・ザ・デッド」ではイラク戦争と巨大な格差社会を象徴させ、世界の縮図に仕上げていた。


どの作品でも人間は汚くおぞましく、力で支配しようとする。ゾンビが人を喰うという行為は、搾取のメタファーだ。


「新感染」はそれを踏まえて考えても素晴らしく誠実なゾンビ映画だった。狭い縦長の車両を多くの人が我先にと走る様と、ゾンビが群がって迫ってくる様の違いはほぼない。どっちも本当に嫌。終盤の電車にしがみ付くゾンビの群れは、自分さえ助かればいいと思っている人間の姿とそう変わらない。一部の人間だけが多くの弱者から搾取して大きくなろうとしているのは、韓国だけでなく世界中の普遍的な問題だ。


中でもコン・ユさんが演じた主人公の人物造形は、捻りはないが、作り手のゾンビ映画への敬意が強く伺えた。
冒頭の主人公は言ってしまえばクズだ。私利私欲の塊のようで他者には不寛容。父親としてもどうしようもないダメ人間で、もはや人間性を失ったゾンビのような野郎だった。そんなクソ主人公も、次第に他者を尊重し、利他的な行動を取るようになり、人としても父親としても尊敬できる存在になっていく。(たった一日で!)そして、過去のフラッシュバックの最中で微笑みと共に真に人間らしさを取り戻す。


容赦ない描写と韓国映画らしい激しすぎるパッションがこれほどゾンビ映画とマッチするとは思いもよらず、劇場から出るときはかなりハッピーだった。


愛しのロメロはもういないが、ロメロ大先生が残したロメロウイルスは確実に世界中に感染している。全人類に感染したらきっと世界は今より良くなる。がんばれゾンビたち!