私思累々

映像業界から抜け出せないみそじ

会いたくて震えてないでこの映画で震えろ!「ELLE」ポール・ヴァーホーヴェン監督

ポール・ヴァーホーヴェン監督の映画は、最高だ。


なぜ最高かというと、ヴァーホーヴェン監督は忖度したおためぼかしなものを絶対に描かない。幼少期にオランダの戦火の最中で、仲間であるはずの連合軍からの攻撃を受けた。見渡す限りの死屍累々、地獄絵図と化した戦火を生き抜いたヴァーホーヴェン監督は、一般的な正しさを絶対に描かない。それに対する疑問符や脳裏に焼き付いた死や人間の残酷野蛮さが必ず作品に反映されている。


ポリティカル・コレクトネスに縛り付ける輩や、それがあることにすら気付かず平然と偽善的な態度で生きている輩には死んだ後も理解できないであろう映画がヴァーホーヴェン先生の作る作品だ。たとえば「スターシップ・トゥルーパーズ」を戦意高揚映画(そうなるように撮っているのもコミコミの皮肉)だと批判する奴は本当にどうしようもない。幼稚園児ほども頭を使っていない。戦意高揚プロパガンダ映画のパロディなのだから。


この映画を批判する意見の中には、ミシェルの性に対する奔放さや寛容さを批難する声もあって、何を言っているのかさっぱりわからないが、男が奔放であることには批難しないくせに女性が奔放になるとなぜ憤慨するのか?そもそも欲求なんて食欲や睡眠欲と同じ水準にあるものだから、自由だの奔放だのという言葉も当てはまらない。そうあることは、至って健全であって然るべきこと。
他にもミシェルがレイプされて警察に通報したり、苦しんだりする姿を描写しないヴァーホーヴェン監督に対して「陵辱されても黙っている女性を描くなんて、女性軽視だ」などという論議があるが、被害者ぶることが正解なの?ミシェルの強さは、社会的に決められる被害者像に押し込められてためるか!という姿にあるのに。


そもそも倫理やモラルや道徳、宗教から法律まで、全部、どっかの誰かが「こうしようぜ」と決めたものでしかない。「実は全部嘘でした~」となってもおかしくないくらい「思い込み・刷り込まされた」ものでしかないのに、なぜそれらを疑いもせずに信じきれるのかぼくにはさっぱりわからない。先に言っておくが、批判と批難は全く違う。ヴァーホーヴェン監督は、社会的・政治的に「正しい」とされる価値観や概念の気色悪さをえぐり出してその内側に平然と押し込められた本質を、観客に一切のおためぼかしのない表現でぶつけてくる。不快だ!と突っぱねるも良いし、わからない!と放棄するも良いが、それをしたらこの映画を楽しむ入口にすら立てなくなってしまう。
優れた映画の多くがそうであるように、「ハラワタを掴んでえぐり出して」くれるのが本作の素晴らしさで、ヴァーホーヴェン監督の一貫しているところだ。


そして一番大事なのは、ミシェルが正しい!と謳った映画ではないということ。ヴァーホーヴェン監督はこれまでもミシェルのような「強い」女性像を描き続けてきた。それはただ単にヴァーホーヴェン監督の趣味なだけ。好きで好きでたまらないのだ。


ガラスの天井をぶち破る姿勢を持ち続ける監督のいつもどおりの女尊男卑映画。


男なんて馬鹿ばっかり!男なんかに会えなくて震えられてちゃ困るぜ!男が会いたくなって会いに来ちゃうけどハサミでぶっ刺して、タコ殴りでぐちゃぐちゃにして欲しい!
この度も震える程興奮しましたし、次のヴァーホーヴェン監督作品が震えるほど待ち遠しい!日本の震えている多くの女性にも観ていただきたい!