私思累々

映像業界から抜け出せないみそじ

概念と映画「散歩する侵略者」黒沢清監督

侵略映画は昔から山ほどあって、中でも有名なのは「ボディ・スナッチャー」で、何度もリメイクされている。最初のドン・シーゲル監督が手掛けた本作が公開された50年代当時、多くのSFが作られ「地球の静止する日」や「宇宙戦争」などの外部からの攻撃や侵略を恐れ、「遊星からの物体X」や「ボディ・スナッチャー」のような共産主義や全体主義の恐怖が作品に反映されていた。「ボディ・スナッチャー」は隣人や家族でさえ、いつの間にかそういった思想に取り込まれているという、心に対する侵略の恐怖だ。


ぼくが特に大好きなのは1978年にフィリップ・カウフマン監督がリメイクした「SF/ボディ・スナッチャー」で、まさに冷戦真っ只中に作られ、最高に恐ろしくて楽しい傑作だ。

有名すぎるこの指の感じは、「散歩する侵略者」にもオマージュされてますね。


上記したように侵略映画は、イデオロギーを変えてしまう、変わってしまうという共通点があり、その人をその人で無くしてしまう地続きの恐ろしさが凝縮された非常に社会性の高いジャンル映画だ。


そうやって考えると「散歩する侵略者」もそういった今この瞬間の社会問題(恐怖?)が反省されているのは間違いない。ただ、「散歩する侵略者」に関しては、侵略者によって乗っ取られるのではなく抜かれるのだ。これは一体、どういうことなのだろう。


彼らが人間から奪うのは概念だ。それは、一朝一夕で身につけたのではなく、長い時間をかけて築き上げた指針であるとか、考えの根源である。それに基づいて人は時に瞬時に判断し、あるいは長考し行動を決めている。そういった意味では、イデオロギーに近く、それを失うとあらゆる判断ができなくなってしまう。本作においても、概念をひとつ抜かれるだけでイデオロギーが大きく変化し、人が変わってしまう。


概念はすべての言葉に寄り添っていて概念のない言葉はないといってもいい。全てには意味や理由がある。こんなふうに広げて考えると、実存主義っぽく聞こえてしまうが、あながち間違いでもないような気がする。例えば、「なぜ私は生きているのか?」を真剣に自分に問いただして、それなりに納得のゆく結論を自分自身で導き出せる人はどれだけいるのだろう?「自分と他人の違いは何か?」なんて、あまりにも哲学的すぎるが、考察できたら立派な哲学者だ。でも、誰もが朧げに言葉では言い表せないながらも、わたしがわたしであることをはっきり認識しているはず。


その一方で、概念が抜けている言葉を頻繁に耳にする。例えば「ヤバい」だ。この言葉は、どんな状況にも応用できる。美味しいものを食べた時、激痛が走った時、眠たい時、恋が実った時、事故を目撃した時。それぞれの状況に遭遇した時、まったく異なる情動が働いているはずなのに、その自らの情動を言語化するのを省略して発せられるのが「ヤバい」だ。「ヤバい」は形骸化したLINEのスタンプのような言葉で、もはや言葉というよりはオノマトペの一種に思えてくる。概念が抜け落ちた言葉を、言葉だと思いこんで平然と使うのは概念がないことに等しくないだろうか?そんな言葉は山ほどあるし、同時に概念があるはずの言葉も使う当人がその言葉の概念を持たずして(考えず)使っている場合は、それもまた形骸化した言葉になってしまう。ぼくはそんな人によく出会う。それを恐ろしくも思う。


概念は必ずしも統一なわけではない。なんてのはその最たる例で、人それぞれ愛の概念は違う。むろん、考えたこともない人もいるだろうが、それぞれが築き上げた概念一つひとつの総体、集合体が自己同一性を創造し、実存主義がいうところの実存を作り上げていく。概念のない人(考えたことない人)にそれを大声で説いたとこで絶対に伝わらない。それはさながら劇中の長谷川さんの姿に重なる。


概念を喪失した人と、概念がそもそもない人の間にはどれだけの差があるのだろう?ぼくからすればどちらもそう変わらない。結局概念がないことに変わりはないのだから。
それはまるで「ゼイリブ」のようで、侵略される以前からすでに何かに毒されているように思えてならない。「有権者には眠っていてもらいたい」と言った政治家もいるくらい、この現代社会は考えないことを良しとしている。バラエティを付けても、ドラマを見ていても、考える余地なんて微塵も与えてくれない。米大統領トランプが大好きな反知性主義は間違いなく日本にも侵食している。


そう思うと、ラストシーンの長澤まさみさんの姿がどれだけの人の鏡になったことだろう。